現代社会を生き抜く術を考える

考察と日記を織り交ぜたブログです。

先見の明を生かせなかった反省

新型コロナウイルス感染症の流行が全国的に起こり始めてから1年半以上が経った。

今になってみると、2020年の1月の頃を思い出す。

中国河北省の武漢で感染者が出始め、日本にも来るのではないかとの不安が巻き起こった1月上旬。

日本でも観光客を中心に感染者が確認された1月中旬。

この頃私はすでに、「これからやばいことが起きそうだな」という予感を感じていた。

1月からマスクを少しずつ備蓄することを初め、秋学期の期末試験が終わる1月半ば頃からは不要不急の外出も控えるようになった。

その予感が当たったかのように、2月以降になると日本国内での感染者も増え始め、春には緊急事態宣言が出ることになった。

私が今になって少し後悔していることは、1月上旬から抱いていた不安や懸念を何かに活かすことが全くできなかったこと。

例えば、新型コロナウイルスの感染者数などの情報を伝えるサイトを作るとか、技術力はないにしても時間だけはあったから色々できたはずだ。

ただ当時はそんなことをする気は一切起きず、未知のウイルスに怯え、引きこもることしかできなかった。

いつかまた似たようなことが起きたら、今度こそ何かアクションをしてみたいと思った。

電車で、自分の隣だけ誰も座らないという現象

通勤電車、特急、新幹線。

何でもいいが、電車に座っていて徐々に車内が混んできても、自分の隣の席だけは空いている。

やがて席がほぼなくなり、立ち客が出てきても、自分の隣だけが空いている。

こういった現象を経験したことがある人は少なくない…と思いたい。

東京のような大混雑する地域の通勤電車でこのような現象が起きることは少なく、お盆や年末年始などで混んでいる新幹線で起きることが多かったように思う。

私は新幹線では窓側の席を好むので、隣の席に誰も座らない方が好都合ではある。でも、何故自分の隣だけが敬遠されているのか?他の乗客は私に対してどんな感情を抱いているのか?など、色々と考えてしまう。

ネット上では、「隣の席に女子高生が座ってくれると、自分という存在が認められたような気がする」という書き込みをよく見かける。これに関しては私も同感だ。

女子高生に限らなくても、ある程度他人の身なりを意識してそうな人が座ってくれると、少なからず嬉しくなるものだ。

採用or不採用を見極める方法

これまで30社以上の企業に落ちてきた筆者が、就職活動において採用or不採用を見極める方法を1つ伝授する。

それは、「連絡が遅い」「連絡が電話ではなくメール」である場合は高確率で不採用であるということ。

私が受けてきた企業の中では、面接から1か月が経つのに全く連絡が来ず、1か月半ほどが経ってようやく不採用メールを送ってきた企業もあった。

書類選考の場合も遅いところは遅い。書類を提出してから1か月以上連絡がなく、その企業の就活イベント(説明会のようなもの)に参加した途端、思い出したかのように不採用メールを送ってきたところもあった。

なお、書類選考では、合格不合格すら伝えてくれない企業(いわゆる「サイレントお祈り」)もあった(某有名鉄道会社など)。

基本的に面接に通る場合(私の場合は今まで1社しかないが…)は、面接から1週間以内に通過の連絡が電話で来ることが多い。

1週間以上経ったのにもかかわらず一切連絡がこない、連絡が電話ではなくメールで来た、という場合にはほぼ不採用だと思って良いだろう。

書類選考の場合は企業によって差がありそうだが、流石に通過の場合は1か月以内には連絡が来ると思う。

企業側は、「2週間以内には合否の連絡をさしあげます」と言うこともあるけど、そういう場合も合格者には当日or数日後には連絡してるんだろうなあ。

 

十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人…にもなれない

「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」ということわざがある。

たとえ子どもの頃に優れていると思われていた人でも、大人になると平凡になってしまうという意味だ。

私も小学生時代は、「神童」とまでは行かないが勉強は優秀だったし、高校受験(15歳頃)の時には地元で一番頭の良い高校に合格した。

コミュ力がないのは子どもの頃から変わっていないけど、当時は「人見知り」で通っていたから、大した問題じゃなかった。

だから昔は私の将来を期待してくれる人も結構いて、「進学校→一流大学→大手企業」という勝ち組ルートを歩いていくんじゃないかと思われていたはずだ。

つまり、大げさに言えば「十で神童、十五で才子」だったわけだが、二十歳をとっくに過ぎた今、私は「ただの人」になったのか?

ただの人というのは、どこにでもいる平凡な人を指す。おそらく世の中で平凡な人は多数派で、そこら中にいるんじゃないかと思う。

そう考えると、私は、ただの人にすらなれていないんじゃないか。

だって、私には友達もいないし、異性と交際した経験もない。勉強は少しできるかも知れないけど、大学で何か研究をしたわけでもないし、論文も1枚も書いていない。

そして、就職活動を半年間続けても内定はゼロ。

こんな人間は、どう考えてもただの人以下だと思う。

つまり、私の場合は、

「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人にもなれぬ」という感じか。

卒業アルバム、買うか?

大学卒業まであと半年、相変わらず就職内定は1つもないわけだけど、無情にも時間は過ぎていく。

最近、大学から「卒業アルバム」についての案内が来ていることに気付いた。アルバムはネット上から購入できるらしく、価格はなんと1冊20000円。

アルバムって、なかなか高いんだなあ。仮にこれを学生1000人が買ったとしたら2000万円か。

もちろん必要経費もそれだけかかるんだろうけど、結構良い商売じゃないかと思ってしまった。

他の学生が卒業アルバムを買うのかどうかはもちろん知らない。とりあえず私は、今のところ買うつもりはないかな。

1冊5000円以下くらいだったらまだしも、20000円は高い。

就職内定がなく収入の見込みがないにもかかわらず、奨学金の返済と、国民年金の追納を控えている私にとっては痛すぎる出費だ。

まあとりあえず「卒業証書」はもらえるだろうから、私が大学を卒業したという記録は残せそうだ。

記録も記憶もない大学生活となってしまったら、何百万円ものお金をかけた意味が全くないからね。

2011年から2021年までの10年間、何が変わった?

10年で変わったこと・変わらなかったこと」というお題があったのでそれに関する話を1つ。

10年で変わったことと言えば、居住地と所属だろう。10年前は中学生で地元の田舎に住んでいたが、今は大学生で首都圏に住んでいる。これからも首都圏(もしくは他の大都市)に住み続けたいところなのだが、就職内定がまだない今の状況では果たしてどうなるやら。

変わっていないことも少しだけある。それは、「インターネットを中心とした生活を送っている」こと。10年前の2011年は東日本大震災があったが、その頃も私はネットでひたすら災害に関する情報収集をしていた。

スマホやPCを新しくしたり、閲覧するサイトが変わったりという変化はもちろんあった。でも、朝起きたらとりあえずネット上の特定のサイトを確認する、暇なときはネットで動画を見る、情報収集はネットメイン、という生活は全く変わっていない。

おそらく、インターネットに取って代わる新しい技術が登場しない限りは、これからも私はネットを使い続けるのだと思った。

大学ぼっち、一人カラオケをする

タイトル通り、大学ぼっちである私が初めて一人カラオケをした。今まで興味はあったのだが、一人で行く勇気がなかなか出なかった。今回はとりあえずお試しという感じでカラオケをしてみることにした。

朝早くから開いているカラオケチェーンを選び、建物内へ。初めてということもあり、勝手がよく分からないまま受付を終わらせた。

カラオケボックスは最大3人くらいが入れそうな小さな部屋だった。一人カラオケには充分な広さだ。

一人カラオケは初ということもあるので、ざっと3時間くらい利用してみた。歌った曲は20曲弱くらいだろうか。

3時間やってみて思ったのは、薄暗いカラオケボックスで歌うのはとても臨場感があって、アドレナリンが出るということ。

周囲の部屋で誰かが歌っている声が聞こえてくることもあるので、自分の声も丸聞こえになっていないか心配になったが、最終的にはそんなことも気にせず歌った。

私の歌唱力はどの程度なのかは分からないが、ぼっちであるが故に人と会話することが少なく声量も乏しいので、おそらく平均以下だと思う。他の人に聴かせられるような歌ではないのは明らかだ。

何はともあれ、一人カラオケというのがここまで面白いものだと分かってよかったと思う。今後も定期的にやっていきたい。