現代社会を生き抜く術を考える

考察と日記を織り交ぜたブログです。

マウントと言われても

京都市圏に雪が降ったことに影響して、SNS上では「雪国マウント」という言葉が一時期流行ったという。

というのも、少しの雪に影響される東京の都市機能や、東京都民を雪国に住む人が揶揄することが、「雪国マウント」と呼ばれるのだそう。

まあいつもの如く、「東京(首都圏) VS 雪国(北海道、東北北陸など)」という構図で、「数は力」だから東京が圧倒的勝利を収めることになるのは間違いない。

というわけで、「数が力」がもろに出るSNSでは、「マウントする雪国の奴らは情けない!東京は雪に強いようにできていないんだよ?」と「雪国の人間はここぞとばかりにマウントしようとするどうしようもない連中」という印象操作が行われている。

しかし、私はこのような風潮に異を唱えたい。確かに雪国出身者は雪に弱い都市機能や人々を揶揄したくなることがある。そしてそれは、しばしばマウントにつながる。

だが、東京出身者たちも、日々欠かさずマウント行為をしているのではないか。キリストではないが、「今までマウントを一度もしたことがなかった人だけが、雪国マウントに文句を言いなさい」と言いたいものだ。

雪国出身者だけでなく、地方出身者は、東京出身者が体中から滲みだす「東京マウント」に耐えながら生きている。文句を言うこともほとんどないし、言ったとしても少数派だから揉み消される。

それなのに、地方出身者が少しでもマウントをすると、水を得た魚のように「マウントだ!糾弾するぞ!」と騒ぎ立てる神経は理解できない。

「雪国マウント」を連呼する東京出身者には、「人の振り見て我が振り直せ」という言葉を贈りたい。

男と女で、何故こうも違うのか?

私は昨年春ごろから、とある就職支援機関に通っている。通っているといってもたまに行っている程度で、それほど頻繫に行っているというわけでもない。

そこは大学生~20代を受け入れているところだから、私と同じくらいの年齢の人をよく見かける。

男性も女性もいるのだが、そこにいる人たちの様子を眺めて見ると、男と女で大きく違うように思える。

女性の場合は、普通の人というような外見の人ばかりで、身なりも整っていて、コミュニケーションも支障なく行っている人がほとんどだ。

だが男性の場合は、こうはいかない。だらしがない服装をしている人もいるし、覇気がなかったりする人も多く、「いつも教室の端っこで一人で過ごしていそうな人」ばかりのようだ。

なぜここまで差があるのだろう。

女性と男性とで、社会性に大きな差があるのか。女性でもとんでもない人というのはいると思うのだが、そういう人は表には出てこないのだろうか。よく分からない。

今は「女性活躍」が叫ばれている。こんな状況じゃ、日陰者の男が選ばれるわけもない。まあ、これも時代の流れだろうか。

五反田散歩

最近、首都圏の歓楽街を歩くことに嵌っている。

川崎の堀之内、台東区の吉原ときて、今回は渋谷区五反田に来てみた。

五反田は山手線の駅があるということもあり、人が多かった。結構疲れた。

大崎方面から五反田駅近くへ行き、ホテル街やお店付近を歩いてきた。

その時は昼飯時であったということもあり、リーマンのような人たちで街は混雑していた。

そこにいた20代~30代くらいのリーマン集団は、正直あまりガラが良いとは言えない雰囲気を出していた。

彼らは数十年前であればホワイトカラーではなく、ブルーカラー職に就いていたのではないか。

採用選考や人事評価で、「コミュ力」だけが過度に評価されるようになったばかりに、彼らのような人たちは肉体労働ではなく、頭脳労働職におさまっている。

彼らにとっては好都合だろうが、これによって肉体労働職は人手不足に陥っているし、一昔前であれば頭脳労働職についていたような人たちは非正規や、無職というポジションにいることを余儀なくされている。

時代の流れだから仕方がないのだろうとは思うが、ちょっとモヤモヤする感じがした。

年末詣と初詣

普段は神社に参拝するということをあまりしない私だが、この年末年始は3つものお寺や神社に行き、お参りをした。

昨年(2021年)があまりにも不甲斐ない1年だったからだろうか、色々な神社に行ってしまった。

あとは、一応昨年は本厄だったからという理由もある。というか厄年だった昨年(年末除く)に1回もお参りをしなかったというのも、ちょっと変な感じだ。

神社は年末年始ということもあり、家族連れやカップルなどでそこそこ人がいた。

そんな中私は1人だったので、正直しんどい気分になった。今まで孤独を選んできたのは他でもない私なのだが。

まあ今年は、昨年のような孤独でつまらない年にならなければいいなと思っている。

 

今年は、○○な一年だった

あと2時間ちょっとで、2021年が終わる。

今年を一言でまとめるならば、私は「ろくでもない一年」と答えたい。

就職活動の失敗を中心に、暗い出来事ばかりが続いた。明るい出来事はほとんどなかった。

今年は、とりわけはっきりと「不幸」と言える出来事はなかったが、一年中頭の中に暗雲が立ち込めているような状態だった。

将来に対する絶望感も強かったし、「この世から消えたい」と思い続ける日々もあった。

そしてこの絶望感は、今年が終わっても消えることは決してない。むしろ、増幅される可能性の方が高い。

おそらく私が年を取っていくにつれて、私の頭の中を覆う絶望感と、屈辱感、劣等感といった感情は、より大きくなっていき、私の自己肯定感を下げ、人生に対するモチベーションを引き下げることだろう。

そのような意味では、今年はある意味「悲劇の序章」と言えるような一年なのかもしれない。そう考えると、今年程度で「ろくでもない一年」と言わない方が良いのだろうか。

来年は、いったいどうなるか。就職内定を得ることはできるだろうか。誰かと友達になったり、仲良くしたりすることはできるのだろうか。

そろそろ、タイムリミットも近い。10代後半の頃とは訳が違うのだ。

来年は、せめて今年より良い出来事が多い年になればと思わずにはいられない。

「主観」「客観」どちらを追い求めるべきなのか

最近、というか今年はほぼ一年中「幸福」という概念について考えている。

人が生きる目的ははっきりとはしていないが、ではなぜ人は生きるのか。それは「幸福」を得るためだと思っている。

もちろん、本能的に「生」を求めている部分もあるだろうが、人が能動的に何かに取り組んだり、他者と交流したりしようとするのは、本能以外にも人間に行動を起こさせる起爆剤のようなものがあるからだと思う。

その起爆剤こそが、「幸福になりたい」とか「幸福を得たい」という無限大の欲求なのだ。

さて、「幸福」と一言に言っても、人によって幸福の概念は様々なのは言うまでもない。

そこで私は(既に言っている人がいるかもしれないが)、「主観的」幸福と、「客観的」幸福という2つの要素を提示してみたい。

主観的幸福というのは、自分自身の感情によって「幸せ」と「不幸せ」を判断することができるということを示している。

その一方で、客観的幸福は、世間一般の「これは幸福と言えるだろう」というある種の共通認識のようなものに根差している。

例えば、恋人がいるとか、結婚しているとか、お金をたくさん稼いでいるとか。おそらく世界中のほとんどの人は、こういった特徴を持つ人たちは幸福な状態にあると判断すると思う。

さて、ここで私が考えるのは、人間は主観的幸福と客観的幸福のどちらを追い求めるべきなのかということである。

これは思ったより難しい問題だ。主観的幸福を優先すれば、「足るを知る」が如く自分の身の丈に合った幸せを噛み締めて生きることが可能になるが、世間一般で言う幸福とは程遠い状態にあるので、その現実に悩まされることになる。

かといって客観的幸福を優先しようとしても、人によっては結婚できなかったり、仕事が上手くいかなかったりと、客観的幸福が求める条件をいつまでたっても達成できないという場合もある。

この場合は自己肯定感が低下し、「俺って、不幸だなあ」と自分を必要以上に追い込んでしまいがちになる。

では、主観的幸福と客観的幸福を両立させようとするのはどうだろうか。ある部分では主観で幸福を感じ、また別の部分では客観性に頼ろうとすることだ。

例えば、学歴はあるけれど、大してお金を稼げていない人がいたとする。この場合は、学歴の部分で客観性を、お金の部分では主観性を取り入れるのが良いと思う。

つまり、「俺って誰もが認める一流大学を出てる!凄い!」は客観的幸福であり、「俺って他の人より収入は少ないけど、職場環境が合ってるし毎日やりがいもって働けてる!」は主観的幸福だということだ。

年の瀬になって色々と余計なことを考えてしまっている。今回の記事は、その産物である。

一億総ギャンブラー化の布石

今年(2021年)の社会を考える上で、特に印象的だったのが「公営ギャンブル」やそれに関連するコンテンツに興じる人々が増えたことだと思う。

その公営ギャンブルは、もちろん「競馬」のことである。

以前からテレビCMなどで競馬がプロモーションされたり、競馬場に家族連れで訪れる人が増えているという(これもプロモーションの一種?)ことを聞くことはあったが、今年ほどここまで競馬がプッシュされることは今までなかったのではないかと思う。

私はギャンブル行為に関しては、「やりたい人は勝手にやれば良い」というスタンスで、自分自身はあまりやりたいとは思わない。

その理由は、①「面白くない(と私は思う)」②「最終的には得をしないことが明らか」だからだ。

同様の理由で、宝くじを買うこともほとんどない。

私が最近の情勢を見ていて面白いと思うのは、ネット上において「パチンコ=悪」、「宝くじを買う人間=馬鹿」と宣う人が非常に多いにもかかわらず、競馬という行為に関しては割とすんなり受け入れられているという点だ。

まあ、これも「テレビは信用できない!」と言っている人が誰が書いているかも分からないブログ記事を妄信してしまうのとある意味同じことだと思う。

結局のところ、「周りの人が皆やっている(流行している)」「(企業やメディアによって作られた)イメージが良い」という理由で、人は公営ギャンブルを受け入れ、それに興じているのだと考える。

そう考えると、「一億総ギャンブラー化」が達成されるのも、そう遠い未来の話ではないだろう。