現代社会を生き抜く術を考える

考察と日記を織り交ぜたブログです。

「大学生の孤立」が深刻化しているらしいが・・・

最近、というか数か月ほど前から、「COVID-19と孤立」について取り上げたニュース記事をよく見る。

 もちろん、COVID-19はウイルスであり、ウイルスは人と人との接触によって伝播するのだから、ウイルス流行を防ぐには、人との接触を極力減らさなければならない。

故に、未曾有の世界的パンデミックが起きている現在では、人との交流が通常よりも少なくなってしまい、結果として孤立する学生が増える、ということらしい。

もう数年以上一人も友達がおらず、人と交流することもない筆者について言うと、COVID-19が流行っている今年(2020年)と、去年(2019年)とでは人と関わる回数もそれほど変わっていない。

つまり、COVID-19による「孤立化」の影響は特に受けていない、いやもとから孤立してるだけか。

とりあえずこの記事では、一般的な大学生の孤立について考えたことを述べる。

最近の「学生による不満」について・・・

今年春辺りから、「大学生の日常~」などというハッシュタグTwitterなどで目にするのだが、私自身はそれに対して違和感しか感じなかった。

そもそも「大学生の日常」が何を指しているのかが不明確だ。大学生といっても皆凝り固まった同じ人格を持っているわけではない。日本人は寿司が好き、アメリカ人はマックが好き、というのと同じくらい乱暴な主語の使い方だと思う。大学生といっても、毎日研究や学問に勤しむもの、インターンシップなどにいって就職戦線での競争優位性獲得を狙うもの、遊びまわるもの、何もしないものなどさまざまだ。皆人格も性格も違う、共通しているのは彼らが「学生」であるというだけだ。

彼らの「日常」も千差万別だろう。研究をしている学生なら研究室にいることが日常かもしれないし、遊び回っている学生であれば渋谷や六本木といった繫華街にいることが日常かもしれない。

それにもかかわらず、「大学生の日常」と一括りにすることは、正直当事者(?)の学生の一人である筆者からすれば、ナンセンスだと思わざるを得ない。

「大学生の日常」って何だろう?

またこれは個人の意見だが、強いて「大学生の日常」を定義するならば、それは「講義を受けること、勉強、研究をすること」だと思う。

これは、文系学部であれば既に達成されていることである。授業はオンライン形式で受講することができるばかりでなく、図書館等に行って文献を参照することもできる。ゼミや研究など、他の学生や教員と綿密なやり取りをする必要がある活動についても、zoomやWebex等のアプリケーションを使えばインターネット上で遅滞なくやり取りが可能であるため、オンライン形式でも問題なく活動ができる。

もちろんこれにはインターネット環境が必要なので、ネット環境が確保されていない学生にとっては死活問題である。ただ、ネット上であれこれと呟くような人であれば、おそらくオンライン授業の受講に十分なネット環境は既に確保されているのだと思う。本当に「日常」が失われている人というのは、何らかの理由で声を上げられない人たちである。

では、Twitter等で「日常」の復活を求めている人は、いったい「大学生の日常」をどのように定義しているのだろうか。

おそらく、彼らの言う「日常」は、他学生との交流が根っこにあるのだと思う。COVID-19流行に伴う授業のオンライン化や外出自粛によって、他学生と交流する機会が減っており、これが彼らにとってストレスになっているのだと推測される。

だが、学生間の交流というのは、必ずしも"Face to Face"の場合にのみ成立するわけではない。LINEやSkypeといったアプリケーションを使えば、実際に会うことなく会話やメッセージのやり取りができる。「友達を作る」機会は確かに減っているかもしれないが、TwitterInstagramなどのSNS等を使えば、自分に合う人を探すことはできるだろう。

前を向いて考えていくことが大事

COVID-19の流行は少なくとも来年春までは続くだろうし、流行が収まったとしてもすぐに「日常」が戻ってくるわけではない。

ならば、今の状況に即した新しいやり方を考えてみるのが良いと筆者は思う。先ほども述べたように、ネット上で友達を探してみるというのも一つの手だ。

それに、今は自宅にいることが多く、フリーな時間もそれだけ多いので、何か新しいことを勉強してみるのも良いと思う。

勉強といっても、何も大学での勉強と関係がある必要はない。文系学生がコンピュータを勉強したり、理系学生が歴史を学んでも構わないはずだ。熟考できる時間が溢れるほど確保されている今だからこそ、未来に向かって自分の道筋を切り開く活動をすることが大事なのではないだろうか。