現代社会を生き抜く術を考える

考察と日記を織り交ぜたブログです。

勘違いされがちな、就職活動と「人間性」

ネットで就職活動関連の書き込みをボーっと見ていると、とある投稿が目に入った。それは、「学歴を以てしても就職活動で失敗する人間は人間性に欠けている」という趣旨の投稿である。

 筆者の考えによれば、この手の考え方は就職戦線で戦う上で重視される要素を勘違いしたものであると言わざるを得ない。

勘違い①「高学歴であること」は、内定を獲得する上で十分条件ではない

そもそも、現代は「高学歴であれば容易に大手企業へ入社できる」という時代ではない。学歴など、複数ある評価尺度の1つでしかない。確かに、学閥や学歴フィルターなどで特定の大学(あるいは大学群)を卒業した人間のみを雇用している企業もあるかもしれないが、それでも競争が熾烈なのは言うまでもない。

高学歴であることは必要条件であるかもしれないが、十分条件ではないのだ。

勘違い②適性検査は、「人間性」を測るものではない

大手企業の多くは選考において「適性検査」を実施している。適性検査は「能力検査」と「性格検査」に分かれている。

就職活動対策系サイトや書籍では、「適性検査は、『やばい奴』を排除するために行っている」と書かれることがよくある。(もちろん表現は媒体によって異なる)

能力検査だけでは純粋な学力、処理能力を確認し、性格検査では、応募者が「やばい奴」であるかどうかを確認しているということだろうか。筆者は採用側の人間ではないので、詳しいことは分からない。

そもそも世界各地で「ダイバーシティインクルージョン」が叫ばれている時代に、このような特定の属性を持つ人間を排除するような試験を公然と実施するのは如何なものか、という気分にもなる。

しかし、性格検査というのは対策を講じることが容易であるため、仮に「やばい奴」と判定されるような属性を持った人間であっても、「やばくない奴」に擬態して検査に臨むことは可能である。

したがって、適性検査に落ちる=人間性に欠けると判定するのは早計である。

勘違い③面接は「人間性」を見るテストではない

書類選考や適性検査を突破すると、今度は面接が待っている。面接でことごとく落選する人間は、人間性に欠けているのでは?と考えたくなるが、本当にそうだろうか?

面接というのは、企業と応募者が本当にマッチしているのかどうかを企業側が判断するために設けられている。

企業側はより自分たちに適した人間を選ぶために、色々な尺度から応募者を吟味する。

尺度には身なり、コミュニケーション能力、経歴などさまざまあるだろう。人間性という要素ももちろん重要にはなりそうだが、たかが30分や1時間程度の面接では、個々人の人間性を測ることなどできない。

面接で人間性以上に重要視されるのは、明朗に会話をすることができる能力だろう。これは人間性とはほとんど関係がないと思う。性根が腐っていても、明るくハキハキと会話ができる人は当然いるはずだ。いないと考える方が無理がある。

というわけで、面接もまた、人間性とは関係がないと考えた方が良いだろう。*1

 最後に…

就職活動で失敗する人間は人間性が欠けている、という言説は、一見分かりづらい危険な要素を孕んでいると思う。

正規雇用で働いている人たちや現在仕事にありつけていない人たちの多くは、かつて就職戦線でふるいにかけられてきた過去を持っている。だからといって、彼ら皆が、人間性に欠けていると断定することなどできない。

進学、就職を経て敷かれたレールを順調に進んでいく人がいる一方で、レールを順調に進むことはおろか、適切なレールが敷かれていない人もいる。

米国の哲学者、マイケルサンデルが言っていたように、人の「能力」と呼ばれるものは実は、本人の力や努力とは関係がない、「環境」によって形作られているのではないだろうか。

国民のほとんどが雇用者として働くようになって久しいが、世の中には雇用者に向いている人もいれば、向いていない人もいる。雇用者に向いていない人たちは、本当に人間性に欠けているのか?そもそも他人をあれこれと評価している自分の人間性はどうなのか?胸に手を当てて考えてみる必要がありそうだ。

 

*1:人間性は関係がないと言っても、面接ではコミュニケーション能力を筆頭に、人間の持つ分かりやすく、それでいて誤魔化しが利きづらい要素が視られる傾向がある。したがって、10社20社と面接を受け続けているのにもかかわらず落選してしまう人は、自らの能力に根本的原因がある可能性を疑った方が良いかもしれない。