現代社会を生き抜く術を考える

考察と日記を織り交ぜたブログです。

「学内の透明人間」という側面から大学ぼっちを考える

大学ぼっちは毎日暗く、辛く、陰鬱とした日々を送っているとネット上では言われることが多い。

 実際のところそうでもないのだが、私個人的には、大学ぼっちは「大学内の透明人間」的ポジションにいるのではないかと考えている。

今回は、「学内の透明人間」という側面から見た大学ぼっちについて論じてみたい。

なぜ大学ぼっちは「透明」なのか?

「透明人間」は古くから主に漫画やアニメなどに存在する架空の人間であり、もちろん現実には存在しない。他人から姿を一切見られず、場合によっては他の物体に干渉されることなく自由に移動ができる。

さて、この「透明人間」と大学ぼっちには如何なる共通点があるのだろうか。

①他者から興味の対象となることが極めて少ない

透明人間は当然ながら他の人間と双方向的にコミュニケーションを取ることができない。一方的に悪戯をしたり、言いたいことを伝えることはできるかもしれないが、相手からの応答が自分に返ってくることはない。

大学ぼっちも、似たような面があると思われる。もちろん大学ぼっちは現実世界に存在する人間であるから、誰かに話しかければほとんど確実に何らかの返答を貰うことはできるだろう。しかし、自分から行動することをしなければ、他者から興味の対象となることはなく、何か別の目的(勧誘など)を持っている人間以外から話しかけられることはまずない。

②同じ組織やグループに属する他者から存在を認識されることが極めて少ない

①と似ている部分もあるが、簡単に言えば、比較的存在を認知されやすい少人数での活動といったシチュエーションでも、大学ぼっちは他の誰からも存在を認識されない(もしくは認識されたとしてもコミュニケーションの輪に入ることがない)ということである。

先ほども述べたように、透明人間は通常の人間とコミュニケーションを取ることは困難である。たとえ文字を書いたり、声を出すことができたとしても、普通の人間であればそのような奇妙な発信に応えようとは思わないだろう。

大学ぼっちについては、文字を書いたり、声を出しさえすればおそらく他者は大小こそあれ興味を示し、次第に会話の輪に参加することが出来るようになるのではないかと思う。

だが逆に言えば、大学ぼっちの側が何らかの形でアクションを示さない限り、他者は彼/彼女が発言する機会を与えることはない。小中学校などでよく見られた理想論は大学、ひいては社会では通用しない。皆自分の利益を最大化することだけを目的に活動しているからだ。大学ぼっちが発言しようがしまいが、自分の利益に影響を及ばさないのであれば、当然のごとく他者は大学ぼっちの存在を無視することだろう。

③自分の行動によって何らかの影響を受ける他者がほとんどいない

透明人間は、他の人間のことを一切考えずに行動ができる。勝手に建物に入って遊んだり、お金を払わずに交通機関や映画館などを利用することもできるかも知れない。このような行動はこの世界の全ての人間が透明人間の行動によって影響を受けることがないから可能なのである。

通常の人間であれば、お金を払わずに強行突破で電車に乗ろうとすれば、駅係員や鉄道警察が動くことになるだろうし、勝手に建物に入れば警備員に咎められるはずだ。なぜならキセル乗車によって鉄道会社が損失を被ったり、部外者が建物に入ることで建物内のセキュリティが脅かされるといった悪影響が生じるからである。

大学ぼっちも当然ながら好き勝手に社会で生きることはできない、ただ学内で自分が色々な行動をしたとしても、その影響を受ける人はほとんどいないという意味では透明人間と似ていると思う。

たとえばある学生が2時間目にキャンパスで授業を受けようと思っていたが、直前で気が変わって授業をサボることを決めたとしよう。学内に友達がいる学生であれば、一緒に授業を受けようと思っていた他の学生は影響を受けることになるから、常識的に考えれば授業をサボることを決めた学生は友達に対して何らかの手段でサボる旨を伝えることだろう。

その一方で、大学ぼっち学生の場合は自分がどう動いたところで影響を受ける人はほぼいない。授業に普通に出席しようが、サボって家で寝て居ようが、図書館に居ようが、電車でキャンパスとは逆方向へ旅に出かけようが、関係ないのである。

 結論:透明人間も悪くはない

ここまで、透明人間と大学ぼっちの共通項について個人的に思ったことを書き連ねてみた。結論としては、私自身はこのような境遇であることについて悲観的に思うことは少ない。むしろ、自分が他者へ干渉することや、他者から干渉されることを気にすることなく生活ができるのは、ある意味恵まれているのではないかと思う。

これからも、大学ぼっちにまつわる様々な文章を書いていきたいところである。